【秋からはじまる恋の物語】

    時原一郎 著

第1章

 
 日常の決まりきった生活の中での、ほんの一瞬のささいなアクシデントが、その後の人生を大きく変えてしまうこと はあるのだろうか。十一月初めの夕間暮れ、あわただしく仕事を終わらせてから合コンに向かう途中、僕は遅れてしまいそうで急いでいた。
 柳の木の見える納屋橋(なやばし)東交差点の横断歩道を、僕は慌てていたために、ただ小走りで渡ろうとしただけだった。
 あっと思った時には、前方から右折してきた乗用車が覆い被さってきた。あぶなっ! 止まるだろ、フツー。僕は体を投げ出して転倒した。急ブレーキのタイヤが路面を擦る音が耳元で聞こえた。なんとか、はねられずにはすんだようだ。でも、体中が痛い。すぐには起き上がれなかった。
 車から降りてきたライトグレーのスーツを着た女が、慌てて近付いてくる。
「大丈夫ですか?」
 大丈夫なわけがない。
「ともかく救急車を呼びます」
 相手は言って、携帯電話を使っている。目の前には膝丈のスカートから伸びた若々しい二本のふくらはぎがあった。
 僕はなんとか立ち上がろうとして、アスファルトに両腕を突っ張り、上体を起こしてあぐらをかいた。しかし、全身が痛んで、できたのはそこまでだった。とりあえず頭に浮かんだのは、合コンに間に合わないことをミノルに連絡しなければ、ということだった。Canonのストラップの付いた携帯を取り出す。
「わるい。時間までに行けないから」
「え、いったいどうしたんだ? 祐介が真っ先に駆けつけてるかと思ったのに」
 ミノルの声はいつになくはしゃいでいた。
「わけはあとで話すよ」
 それだけ伝えて携帯を切った。これからお楽しみの親友に、無用な心配を掛けることもあるまい。
 納屋橋の欄干の方を振り向いて、気が付くと驚いたことに、歩道には野次馬の人だかりができていた。人々のざわめきが急に耳に飛び込んでくる。通り過ぎる車は、僕の脇を徐行しながら事故があったのかと眺めてゆく。
「無理しないで。横になってなさい」
 年配の男の人が心配そうに僕の肩に手を掛けた。近くの店の店員らしいお兄さんは、親切にも毛布を持ってきてくれた。大した怪我じゃないようなのに。自分の体を見ると、一張羅のスーツの膝や肘のところが破れていた。あー、なんてことだ。合コンのために今日はめかし込んできたというのに。
「ごめんなさい。ほんとに大丈夫ですか?」
 電話を終えたらしい女が、あぐらをかいたままの僕の傍らにかがみ込んだ。顔の高さが同じになり、間近に見つめ合う形になった。黒目がちの大きな切れ長の目が、心配そうに見つめてくる。風にそよいだ前髪から、リンスの匂いが鼻先に立った。
 再び周りの喧騒が消えた。僕の心臓は一瞬にして、身体以上の打撃を受けた。
 ほどなくサイレンが聞こえてきて、救急車がやってきた。救急隊の人が僕にいくつか質問し(何を聞かれたのかまったく耳に入っていなかった)、手際よくストレッチャーに乗せた。
 心配そうな顔をして見守っていた彼女も、運転席で無線のやりとりをしている隊員のところへ行き、搬送先の病院を確認して戻ってきた。
「私も自分の車で向かいます」
 サイレンを鳴らした救急車はすぐに近くの病院に着いた。救急外来の入口に横付けされ、ストレッチャーごと降ろされる。白衣を着た何人かの手で廊下を運ばれた。まるでドラマのシーンのようだ。
 検査のためにあちこちの部屋に運ばれ、X線、CT、MRIなどを撮られた。そして、怪我の診察と治療が終わるまで、僕はずっと放心状態だった。看護師さん達は、怪我のショックのせいだとばかり思っていたようだ。
 検査と診察の結果は、打撲と擦過傷だけだった。やはり怪我は大したものじゃなかったのだ。幸い服に隠れる部分だが、体中の打撲にシップが貼られた。擦過傷のあった額にガーゼが貼られ、左手の甲には包帯が巻かれた。
 診察室から出てきた僕を認め、彼女は眉を寄せて心配そうに額や手を眺め回す。
「骨にも内臓にも、異常はありませんでしたよ」
 一緒に出てきた看護師がそう説明すると、彼女はようやく、ほっとしたような顔を見せた。
 彼女が時間外の窓口で事務員とやり取りしている間、その後ろ姿を眺めながら、僕は待合室で腰掛けて待っていた。スーツの腰は引き締まっていて、背筋はすらりと伸びている。長い髪は後ろに束ねてアップにしていた。直感的にいって年上かなあなどと考えていると、自賠責保険とか自由診療とか、診断書とか事故証明とか、そんな言葉が聞こえてくる。
 僕は思いついて携帯を取り出し、いけ好かない上司の関山室長の番号を選ぶ。二度のコールですぐに出た。
「あ、沢野ですけど、さっき、ちょっと車にはねられそうになっちゃって」
 電話の向こうで、上司は大げさに驚いた。
「いえ、怪我は大したことありませんから。明日は出勤できますので――」
 やがて窓口での手続きを終えて、彼女がやってきた。歩き方が颯爽としていた。
「ほんとに、ごめんなさい」
 言いながら僕の横に腰を降ろす。
「いえ、大したことなかったから。びっくりして転んじゃっただけです。かえって心配かけちゃって」
「検査の結果を聞いて、ほっとしました。大事に至らなくて……。あ、でも、ごめんなさい、痛い思いしましたものね」
 黒い大きな瞳が、潤んだように微笑みかける。僕はとまどって目を伏せる。
「このスーツ、弁償させてもらわなきゃ」
 彼女は綺麗な和紙でできた名刺入れから、名刺を一枚取り出した。”リブスタッフ 代表 結城真紀”それが彼女だった。これだけでは何だかよく分からないが。名刺には、オフィスと携帯の電話番号が刷ってある。
「警察に電話で事故の届け出をしたら、人身事故が多くて今日は見分にいけないので、相手方の連絡先を聞いておいてほしいということでしたけれど……、あなたのお名刺も頂いていいかしら」
 僕の名刺には会社の住所と内線番号が載っている。
「あなたの連絡先も書いてくださいますか」
 僕は名刺の裏に携帯電話の番号とアドレスを書き込んで渡した。彼女はそれをそっと名刺入れにしまった。
 二人で病院を出て、玄関脇に停まっていたタクシーに乗り、彼女と別れた。時計を見ると九時近かった。
 合コンにはすっかり行きそびれてしまった。携帯を見るとミノルからメールが入っていた。盛り上がった者達で二次会に流れているらしい。破れたスーツと包帯の格好で途中から合流するのも億劫で、ただパスするとだけ返信しておいた。これまでの僕だったら、億劫がらずに駆けつけていたはずだった。

 翌朝出勤した。地下鉄を庄内緑地公園で降り、民家や大小の工場、社屋ビルなどのある町並みを北へ数百メートル歩く。淡いクリーム色をした六階建てのキュービクルなビルが僕の会社だ。
 エレベータを三階で下りて、明るい廊下をゆく。部屋のドアの脇にある入室装置のパッドに、IDカードを押しつけて中に入った。額や手のガーゼは、目立たない絆創膏に貼り替えてある。
「お、生きとったか」
 最初に顔を合わせた大木先輩は、笑いながら言った。こいつ全然心配してないな。
「はい、お陰さまで」
「意外と元気そうですね」
 意外と元気そう、だ? 竹井貢も一年後輩のくせに生意気なものだ。
「怪我はもう大丈夫なんですか?」
 やはり一年後輩の聡子が、心配そうに聞いてくれる。相変わらずの気配りがやさしい。若い子にしては珍しく染めていない短い髪が、聡明さを醸している。名が体を表しているいい例だ。
 他にも誰もが口々に冷やかしてくる。まだ出勤していない関山室長が、既にみんなに言い伝えていたということだ。ロッカーで白衣に着替えて、パソコンの並んだ机の間を通り、僕は自分の席に着いた。
 僕の勤める会社は、株式会社森口バイオケミタックといい、バイオ化学全般を扱っている中堅企業だ。例えば、ブドウ糖類、インターフェロン、乳酸菌、化粧品にバイオ肥料。最近はバイオ燃料、ゴミ処理、河川・下水の浄化まで業務を拡大している。
 株式市場には上場していないが、特許も多数取得しているし、中には世界的に注目されている分野もあるのだ。商品やノウハウを開発して製薬会社、食品会社などに売り込んでいる。
 僕は現在、開発部第一研究室でバイオ燃料の研究、とりわけ植物の光合成の人工化の研究をしている。今や化石資源燃料とは縁を切るべきときであり、各企業は様々な代替燃料、代替エネルギーの模索、開発にしのぎを削っているのだ。
 光合成と一口に言っても、それには多くのプロセスがあり、部分的には我社が特許を取っている発明もある。光合成に注目している企業は他にもあるが、我社はこれまでの経験やノウハウから、独自の開発に取り組んでいて、これが完成すれば、世界的にも画期的なエネルギー革命になることは間違いないのだ。
 一研のスタッフは、いけ好かない室長の関山以下三六人。担当する研究テーマによって、数人から一○人くらいずつが、チームリーダーの元で一つのチームとなっている。また、一人の研究員は複数のチームに属して複数の研究を担当しているのだ。僕だって、バイオ燃料のほかにはブタのバイオ飼料の研究などをしている。
 始業間際に出社してきた関山室長が僕の顔を見ると、思い出したように大丈夫かと聞いた。研究室の一日はミーティングから始まる。関山が、今朝は挨拶もそこそこに、眉間にしわを寄せた。
「聞いてくれ。第二研究室のゴミバクテリアの研究データが漏洩した。二研の誰かが仕事を家に持ち帰って、自宅のパソコンで処理したらしい。そのパソコンでは、エンペラーを使ってたそうなんだが……。
 エンペラーって、聞いたことあるよな。ウィニーと同じファイル交換ソフトなんだけど、もっと強烈なものなんだ。パソコンの中のデータが、根こそぎオープンになってしまった。
 テスト用のデータだったから、被害は少なくなる見込みらしいけど、研究内容が外部に漏れたということはねえ、そいつはどのみち厳重処分は免れないだろうな。研究データの漏洩防止は、普段から口を酸っぱくして言ってることだがね」
 言いながら本当に梅干しでも含んでるような顔になった。
「君たちもセキュリティの基本ルールはしっかり守ってくれよ。会社で自分のパソコンを勝手にネットワーク接続しない。研究データは自宅で取り扱わない。仕事を持ち帰るときはセキュリティ責任者の許可を得る。ウィニー等のファイル交換ソフトは絶対に使用しない。ウイルス対策ソフトをインストールする、――などなど。いいね」
 室長は研究室のセキュリティ責任者に指定されている。研究室内にルールを徹底させるのは彼の役目だ。しかし、システム部からの指示をそのまま伝えているだけなので、まったく説得力に欠ける。僕はあくびを噛み殺しながら、耳にタコのできたルールを聞いている。いや、聞いていない。それらをすべて守っていたら、仕事になりゃしないのだ。
 第一、申請だ許可だ、簿冊に記入だと、手続きが面倒くさい。それに、ある面では非常に厳格だけれど、別の面ではひどくルーズというように、どのみち片手落ちなのだ。結局皆、抜け道の手段を考えつくので、効果がない。
 横で竹井貢も苛ついたように貧乏揺すりをしている。竹井は僕より一年あとの入社だが、性格は僕とは対照的で、まじめで几帳面、神経質なところがある。
 本日の社内行事――午前一○時に献血車が来る、午後一時からチームリーダー会議、など――の連絡があって、ミーティングは終わり、地味だがやりがいのある仕事が始まった。
 パソコンを立ち上げて、実験中のデータを呼び出す。植物が光のエネルギーを吸収する色素のうち最も重要なものがクロロフィルだが、これに代わる物質を探すのが僕の現在の研究テーマの一つだ。これには、すでにルテニウムという貴金属元素等が提案されているが、僕らのチームは、貴金属ではなく非金属物質でよく似た性質を持つものを研究している。
 仕事に没頭していると、あっという間に昼になる。
「さあ、めし食いにいこかあ」
 大木先輩が声をかけてきた。時計を見ると一二時を少し回ったところだった。
「僕はこのデータの処理を終わらせてから行きますから」
 隣で竹井がパソコンの画面から目を離さずに言う。僕は立ち上がりながら白衣を脱ぎ、椅子の背に掛けた。
 二人で会社を出ると、うららかな日差しが僕らを包みこんできた。先輩と並んで無言で歩き、話し合ったわけではないが不思議と同じ方向に、常連になっている幾つかの定食屋のうちの一つに足が向く。
 大木先輩は今年四一歳、数えの四二、いわゆる厄年だ。三三で結婚して小学一年の息子が一人いる。都合の悪いことは何でも厄年のせいにする。無神経なところが嫌だが、ざっくばらんな性格で面倒見はいい。
 のれんを割って店に入ると、幸い待たずに二人掛けのテーブルに着くことができた。湯飲みが二つ運ばれてくる。色あせた壁の品書きを形ばかりに眺めはするが、結局いつもと同じだ。
「カツ丼ね」
「わしは親子丼」
 大木は注文するなり、ぐっと体を乗り出してきた。
「がっぽり取ったれよ」
「え?」
「人身事故だったんだろ?」
「はあ」
「ほんなら、会社を休めば有給休暇を取っても過去三ヶ月の平均給料が休業補償として、それに、休んでも休まんでも通院すれば、一日八、四○○円の慰謝料に交通費がもらえるぞ。まめに通院せーよ」
「忙しくて、とてもそんなに休んでられませんよ。それにしても、ずいぶん詳しいんですね」
「ああ。実は去年、ヤクルトの自転車のおばちゃんをはねちゃってな。思えば前厄だったからなあ……。あ、これ会社には黙(だんま)りだけど。そのときに、えらい損害賠償をさせられちゃったんだわ」
「え、そりゃ、大変だったんじゃないですか」
 僕も思わず身を乗り出した。
「まあ、もっとも、一二○万円までは強制保険が払ってくれるし、それ以上でも任意保険に入っとるしな」
「なーんだ」
 僕は体を戻しながら、あの人に損害賠償を請求するなどおよそ考えられないと思った。

 その結城真紀からは何の連絡もない。名刺の裏に携帯の番号もアドレスも書いて渡したけれど、スーツの弁償のことは社交辞令だったのだろうか。半信半疑のまま何日かが過ぎた。そんなにすぐには、連絡はないだろうとも考えてみる。
 中警察署の交通課の田中というお巡りさんから、会社の内線に電話があった。
「こないだの人身事故のことで、お話を聞きたいんだけど、今日は都合いいですかね。できれば、その前に現場の実況見分もしたいんだけど」
 今日の今日と言われても、仕事もあるし困る。返事を迷っていると、重ねて聞いてきた。
「都合悪ければ、三日後はどうですかね」
 どちらにしても会社をしばらく抜けなければならない。
「今日でいいです」
 現場検証で彼女に会えるかもしれない、そんな期待もあった。
 しかし、約束した時刻に現場に出向いてみると、事故係の巡査部長だという田中さんと若い警察官だけが待っていて、彼女の姿はなかった。
「第一原因者は今日忙しくて、時間の調整がつかないもんだから、彼女だけで後日に行いますから」
 尋ねるまでもなく、言い訳のような説明があった。
 名古屋の中央部を流れる堀川が、繁華街の広小路と交わるところに架かるアーチ型の納屋橋。焦げ茶色の鋳製の欄干は、レトロな意匠を凝らし、中央にはガス灯を模した街路灯の立つ半円形のバルコニーも張り出していた。鈴蘭灯のついた両端の大きな石造りの親柱とともに、大正モダンの面影を残している。
 事故以来初めて納屋橋東の交差点に立つと、あのときのことが生々しく甦る。
「最初に相手を発見した地点は?」
「危険を感じた地点は?」
「転倒した地点は?」
 田中巡査部長の質問に答えながら、僕が指で指示するのに従って、彼は図面に書き込んでいる。若いお巡りさんは、ウォーキングメジャーとかいう計測器を転がしながら、真新しいスリップ痕の長さや縁石からの距離などを測っている。やがて現場での見分は終わった。
 巡査部長が書類を黒いアタッシュケースにしまいながら聞く。
「今日は何で来ましたか?」
「あなたに呼ばれたからです」
 仕事の時間を割いてまで来ていたので、つい言わずにはいられなかった。
「交通手段は何で?」
 相手は慣れているのか、憤慨するでもなく言い直した。
「地下鉄です」
 そう答えると、白黒のワゴン車の後部座席に乗せられて、本署へ連れていかれた。ひどく乗り心地の悪い車だった。
 署の二階の交通課に案内され、車庫証明の申請などで行列のできている窓口の横を通り、事故係のデスクに掛けるよう言われた。
 田中が向かい側に腰を下ろして、ノートパソコンを開く。問われるままに事故の経緯を説明すると、巡査部長はそれをパソコンに打ち込んでいった。彼がプリンターで印刷をしてきた「供述調書」という書類を僕に読んで聞かせ、内容に誤りがないならと、調書の末尾に署名捺印をして、ようやく解放された。

 次の日の朝のミーティングに、システム部の係長がやってきた。関山室長が水無瀬ゆりさんだと紹介した。社内の裏ネットには三一歳で独身、趣味は貯金、彼氏募集中?と流れている。白いシャツブラウス、真っ黒な上着とパンツに身を包んだ姿は、彼女のトレードマークともなっていた。
 明るいブラウンに染めた髪を、年齢もわきまえずポニーテールにしている。もっとも人目を気にするとは思えない本人は、機能的、行動的な髪型のつもりかもしれない。ピンクの印象的なセルの眼鏡をかけていた。
「ええっと、情報セキュリティに関しては、社規も定められてるし、いつも『システムだより』でお願いしてるから、徹底されてるとは思いますけど――、残念ながら第二研究室でデータ漏洩がありました」
 水無瀬女史は眼鏡に垂れかかる前髪を、うるさそうに掻き上げた。
「どうやら、仕事を自宅に持ち帰って、自分のパソコンで処理してたところが、データがハードディスクに残ってて、エンペラーで無料ソフトを取り込もうとして、こちらのディスクの中の文書、データがすべてオープンになってしまったというものです。
 幸い、テストのためのダミーデータであって、今のところ実害は認められないので、マスコミに公表云々という事態ではないけれど、外部に漏れたことには違いありません。見る者が見れば、研究内容まで推測されてしまいます。
 問題点は二つあります。まず、仕事を自宅に持ち帰って、自分のパソコンで会社のデータを処理したこと。次に、自分のパソコンといえども、安易にエンペラーを利用したこと。
 このようなことがあれば、社としても内規に基づいて厳重な処分を検討しなければならないわけです。特に皆さんの研究室は、我社の命運を担う非常に重要な研究をしていて、それだけ研究データも重要なものだということを、しっかりと認識してもらわなければなりません……」
 データ保護が大切なことは十分理解できるけれど、僕らの研究に水を差すような話であることは間違いない。それより、研究の中身の方が大事だ。特に光合成における水素発生の触媒の開発は、特許出願が目の前のところまでこぎつけているのだ。
「規則を厳しくしたって、仕事をせんようになるか、規則の陰でするようになるかのどちらかなのになあ」
 大木も聞こえよがしにつぶやいている。先輩は職人肌のベテラン研究員で、規則やセキュリティなぞくそくらえ、納得のゆく仕事がしたいというタイプだ。
「もういちど、セキュリティの規則を確認します。
 社用のパソコンや磁気媒体は社外に持ち出しは厳禁です。私物のパソコンや磁気媒体を社内に持ち込んで使用するには、社長の許可が要ります。社用、私物を問わず、パソコンを社内でインターネット接続するには社長の許可が要ります。
 あと、仕事を自宅に持ち帰ってするのは――、システム部としてははなはだ疑問ですが、自由な発想は自宅でもいつなんどき生まれるか分からないという社長の意向から、セキュリティ責任者の許可により認められます。但し、どんな形であれ、データを社外に持ち出すのは厳禁です」
 彼女はここで言葉を切った。
「そこで」
 女史の声が一段と高くなったので、誰もが眠たげな顔を持ち上げた。
「『社内情報の取扱いに関する誓約書』というものを、皆さんに提出していただきます。これは研究データに限らず、営業、経理、人事等に関するすべての情報が対象で、すべての社員の方に書いていただくものです。雛形をお配りします。
 あと、社内で使っているパソコンと自宅で使っているパソコンとを問わず、文書名にエンペラーやウィニーなど、こちらの指定したものを含むファイルがハードディスク内に存在しないかを検索し、その結果の画面をプリントアウトして添付していただきます」
 あちらこちらで、そこまでするうという声が起こった。チームリーダーの一人でベテラン研究員の牛村が手を挙げた。
「はい、なあに」
「それは社長のご意向ですか?」
 確かにリベラリストである二代目社長の方針にしては、誰もが行き過ぎだという印象を持つ。社長は常日頃、「研究の自由性」ということを打ち出していて、外部との情報交換も積極的に奨励しているのだ。
 そもそも我社の前身は、昭和三○年代初め、西区で氷砂糖を作っていた森口商会だった。それを二代目の現社長森口琢馬が現在のバイオ関連産業に発展させたのだ。社名もバイオケミカルといえばいいところをバイオケミタックというのは、社長自らの名前と新しいことにアタックするという信条を反映させたものだと聞かされている。
「我社の情報セキュリティに関しては、システム部にすべてを任せていただいています」
 女史は声高らかに宣告するように言った後で、少しトーンを落とした。
「昨今の情報漏洩、ハッカー、スパイ活動のエスカレートぶりは、防衛省など国の機関から一般企業、小学校、病院などに至るまで、どこでも深刻な状況になってます。こと情報セキュリティに関しては、これで十分ということはないんです」
「誓約書を書けば漏洩がなくなるという訳でもあるまいし、検索結果の画面だって、いくらでも偽装して提出できるじゃないか。問題の解決になってない。個人の申告責任にして、自分たちの責任逃れとしか思えないですよねえ」
 隣で竹井が女史に聞こえないようにつぶやいた。

 また夢をみていた。子供の自分の夢だ。この気候にもかかわらず、寝汗をぐっしょりとかいて夜中に目覚めた。僕は小学生の低学年の頃からときどき、得体の知れない奇妙な夢にうなされる。
 幼い自分がいて、それよりさらに幼い妹(おそらく)がいて、その僕の目の前で妹が死んでいく光景だ。死に方はそのつどまちまちだった。川面に沈んでいったり、火事にまかれたり、高いビルから落ちていったり……、というのもその一つだ。
 幼い弟(おそらく)の面倒を見る夢というパターンもある。例えば弟がゴミを散らかしながら歩いてゆく。僕はそれを拾いながらついてゆく。それが目が覚めるまで永遠に繰り返される。あるいは、弟がおやつを欲しがって泣く、分けてやると泣きやむ。おやつがなくなるとまた泣く。与えると泣きやむ。なくなれば泣く、この永遠の繰り返し。
 子供の頃は怖かった。うなされて目が覚めると、夢と現実との区別が付かず、ただただ怯えていた。今でもそれは大して変わらない。これは何なのだろう。実体験に根ざすものなのだろうか。いつか両親に問い質してみようと思っているうちに、それもできなくなってしまった。

 

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